何故か彼女はほんの少し寂しそうに微笑む。
けれど、そんな彼女から滲み出る空気は暖かで優しく、そしてさり気なく告げている。
『どうか、皆が笑ってますように』
そんな、改めて願うでもないことを、馬鹿みたいに真剣に祈っている。
聞きたいことがある。
“皆”の中に、彼女自身は入っているのか。
灯す 03
花井家の朝はそこそこ早い。
学校へ行かなければならない時間まで寝ているなどという子供はいないし、たとえそうしようと画策したところで叩き起こされるのが関の山だ。
けれど、最近はある一人のせいで格段に早くなった。
いや、その一人は何をせずとも勝手に出て行くので、被害はないといえばないのだが。
喉が渇き、なんとも中途半端な時間に起きてしまったものだとぼんやり考えながら階段を下りる。
明朝4時。
空が明け始めるその時間、普段なら聞こえてくるはずもない物音に、花井家双子の一人、飛鳥はまだ完全に開きはしなかった目を瞬かせた。
「……お兄ちゃん?お母さん?」
台所から漂う味噌汁の香りに引き寄せられる。珍しい。こんな早い時間からもう朝飯の準備をしているなんて。
あぁ、もしかしたら、妙に器用な兄が自分で作っているのかもしれない。母親はまだ起きていないはずだからだ。
「美味しそうな匂いだね、あたしの分ってある……」
「え?」
「へ?」
大きな欠伸をしながら台所を覗き込んだ飛鳥は、見えた見知らぬ姿に眠気を吹き飛ばせた。明らかに兄ではない。むろん、母でもない。
親戚などでももちろんなくて……誰だこの人は。考え込むも良く頭は回らず飛鳥はぼうっと突っ立った。
お互い無言で見詰め合うこと暫く。
先に行動したのは飛鳥からだった。何故って、火に掛けている味噌汁が危なかったからだ。せっかく良い香りなのに。目の前の彼女は固まったまま動く気配がない。
「あの、味噌汁が……」
「……あっ」
目の前の彼女が、僅かに煮だったところで慌てて火を止めたのを見届けたあと飛鳥は改めて問いかけた。
「あの、……誰ですか?」
少なくとも、泥棒の類いでないことは確かだが。
言い出したのはもちろんからだった。
も花井も、起きるのはすこぶる早くなった。それは目的があるから出来ることで、何もない人には随分と辛いだろう。
だから、ということと、最近はおざなりな朝食しか取っていないと彼が言ったからだ。
料理は得意で、好きな方だ。だったら泊めてもらったお礼にと作ろうと思った。勝手に(といっても許可はもらってあるが)人様の冷蔵庫から食材を頂くのだから、お礼になるのかはわからないが、喜んでもらえるようだったから。
小さく足音が聞こえたのは、あらかたを作り終え、後は鍋の火を止めるだけ、というときだった。
花井だろうか、と振り向こうとした瞬間に聞こえた声は。
「え?」
もちろん彼のものとは思えない高い可愛い声で。
は驚いてその場で固まった。
「なー。お前ん家寄るからちょっと早めに出るけど準備ってしてるか…………飛鳥?」
「花井君」
「お兄ちゃん」
お兄ちゃん。その単語に、はああと納得した。昨日は恐らく顔を合わせぬままに彼女は寝ていたのかもしれない。
が彼女がいると知らなかったのと同様に、彼女がまさかがいるとは思わないだろう。それは驚くはずだ。
「お兄ちゃん、お早う。あのさ」
の方をちらりと見て、おずおずと花井を窺うように助けを求めている花井の妹には謝った。
「あ、ごめん、ね。驚かして。、です」
驚かせて申し訳ない。
「……さん?」
「俺のクラスメイト。……って、うお、朝メシ!?何、お前作ったのか!!?」
「うん、余計なお世話かもしれなかったけど……。あ、ちゃんときく江さんには許可取ったよ」
そういえば、作ったものが冷めてしまう。それに、ゆっくり出来るほどの時間も残されてはいないはずだ。
ご飯はきちんと取らなければ、一日中練習をこなすことなどできやしない。
はちらと花井を一瞥すると、花井はそれに感づいたかのように切り出した。
「……取り敢えず食うか」
その言葉には頷き、それからはっと気付いてその場で振り返った。
「あの…、良ければ一緒にどうですか?飛鳥、ちゃん?」
彼らのお母さんの料理はとてもとても美味しかったから、口に合うかはわからないけれど。
少し多めに作りすぎてしまった気もするし。
はパジャマ姿で立っている飛鳥をそっと促すように導いた。
かちゃかちゃという食器の音が声の合間に響く。
一緒にテーブルについている二人を咀嚼の間に見やったは、静かにほっと息をついた。
焦がしたりはしていない。味見もちゃんとしたし、の味覚がおかしくない限りは普通に食べることの出来る食事が出来上がった。
とはいえ、やはり反応は気になるもので。
何事も無く食べてくれている彼らを見ては存分に安心した。
「へえ、マネージャーなんだ。ちゃんは」
「うん、そう。花井君とか、あともう一人のマネジやってる千代ちゃんって子に誘ってもらえて」
出会えて良かった。こうして、野球を通じてもっと皆を知っていって、そして好きになる。居場所がある。笑って迎えてくれる人たちがいる。
そんなきっかけをくれた。だから。
「どうした?」
「ううん、何でもないよ」
目の前の彼が、が大切に思う皆すら一つ飛びぬけて大事だと思うのかもしれない。
箸の動きを止めたに気付いた花井の問いかけに、はにこりと微笑んだ。
ともかくも、毎日が愛しくて堪らない。
「飛鳥ちゃんは、野球に詳しかったりするの?」
「あのお母さん見てればわかるでしょー。私、自分の持ってる野球の知識なんて、常識的にみんな持ってると思ってたの。そしたら、学校でさ、女の子で野球のルール熟知してる子なんてそうそういなくて」
すごくびっくりしたと面白おかしく話す飛鳥と、あの母親もな、と何処か遠い目をする花井にも笑う。
ちゃんと笑えたのに、どこかちくりと胸が痛む自分に、は心のうちで納得できずに考え込む。
どうして。
何もを痛めつけるものなどないはずなのに。
「……?どうかしたか?」
「ううん、何でも、ないよ。大丈夫」
察しの良い花井は、とてもありがたくて少し困る。
何でもない。気付きたくない。
誰だって、そうでしょう?蓋をする。溢れ出させるわけにはいかないから。
「お兄ちゃん、ちゃん、時間大丈夫なの?」
「え?」
「うわっ、やべ。っ、早く!!」
せかされるままに急いで朝ごはんを片付けて、ばたばたと自転車を用意する花井の傍らでは飛鳥に叫んだ。
全て完璧にしてからお邪魔するはずだったのに、やはり誰かと食卓を囲うというのは楽しい。時間の過ぎ方が全く違う。
「飛鳥ちゃんっ、台所にお弁当用に作ったおかず置いてあるから、良かったら使って。あと、きく江さんにありがとうございましたって伝えておいて欲しい……」
「っ!」
「あ、うん、ごめんなさい花井君行きますっ!!」
「わかったよ、伝えとく。ちゃんありがと。美味しかったよ!また会おうね」
振られた手に、のまた大きく振り返す。
偽りのない笑顔に、そして言葉にのまた顔が綻ぶ。花井と同じだ。飛鳥もまた、優しい。
ついさっき感じた心の痛さはもうわからなくなっていて、は都合よく忘れる。
今は思い出さなくていい。向かい合うときはきっと来るのだろうけど、それは今じゃなくていい。
「うん、また!!」
最後にそう言って、は走り出した。
たぶん間に合う。というか意地でも間に合わす。
遅刻でもしようものなら、実は厳しい監督はどうなるだろう。
いや、は本来こんな時間には来なくて良いのだから怒られるのは花井一人だろう。それはなんとも忍びなく。
「……ごめん、ちょっと走っぞ」
「もとは私のせいだよ。うん、急ごうか」
百枝監督を想像したのか顔が引き攣っているように見える花井に、はふふ、と小さく声を出した。
例えばこんな急ぐときでも、君は置いて行きはしないんだね。
小さく笑って、走りながら付いてくるを見て、花井ははぁ、と息をついた。
もう普通どおりの様子で、抱いた違和感は消えてる。
「何でもない」と彼女は言っていたが、嘘だと分かるほどには花井はの性格というものを知っている。
大丈夫、だなんて言葉は、大概大丈夫でない者が使うのだ。まして、ならば。
笑っている彼女に、偽りはない。心から笑って、楽しんでいる。それはきっと本当。
「……抱え込まれる方が気になんだ。気づけよ」
けれど、無理に聞き出すほど無遠慮にはなれなくて。
いつか、心に抱えていることを話してくれるその時は。
そんな時が来たら受け止められるといいと思う。
気持ちの良いほど晴れ渡った空の下遅刻は御免と走りながら、花井は確実に存在を増しているこの後ろの少女のことを考えた。
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