伝えたい。
おそらく、どう足掻いても伝えきれない感謝の想い。
けれど、は言葉で伝える方法しか知らないから、唯一の手段であるそれで、きちんと。
本当は面と向かって言うべきなのだろうが、そうすれば彼は困ったように笑み言わなくて良いと言うから。
それでも伝えたいんだよ、『ありがとう』って。
想うだけでは伝わりなどしないから。
響く 05
授業と授業の間。僅かである休み時間に、は次の時間の教科書を机上に置きのんびりとも言える雰囲気で席に着いていた。
身体は机にもたれてはいないが、その目は閉じられている。
完全に寝入ってはいないものの、何もせずに目を閉じるだけで幾分か眠気や疲れは回復する。
時間の使い方がお世辞にも上手いとは言えない自分は、黒板を見つめていないと置いてけぼりをくうこと請け合いである。
何が何でも避けたい事態はそれなので、いくら流れるような流暢な英語が心地よい子守唄に聞こえてもは必死で眠気と戦う。
「ー、生きてっかー」
名前を呼ばれて、はゆっくりと瞼を上げた。
「……あれ?次って、移動だったんだね」
顔を斜めに少し見上げれば、教科書を抱えている水谷が見えた。
の記憶よれば次は教室だったような気がして、は尋ねた。自分と水谷と、どちらを信じるかと言われればもちろん水谷だ。
「ん、そーよ。聞いてなかった?時間割へんこー」
「……え……次何ですか」
何となしに、嫌な予感がすると思った。
次が教室での授業ではないという事は、今机上に出している教科書を使う教科ではないという事で。
つまりは。
「生物」
「……あぁ……忘れた」
その答えが発された瞬間は思い切り項垂れ、そして勢い良く立ち上がった。
落ち込んでいる時間はない。なにしろ実験室まで移動もしなければならないのだ。
「先に行ってて?誰かに借りてきます」
「ありゃ、珍しいね」
が忘れ物をするのを見たのは、これが初めてだった。
水谷は意外そうな声を出すと、了解との背を軽く叩いた。
「9組も確かあったと思うよ、生物。行っといで」
「ありがとう」
教室の戸に手を置いた折、声を掛けられは振り向く。
もう何度も励まされている低い声。
耳慣れた、聞くだけで心は安らぐ。
「何?、忘れたのか?」
は眉を下げながら困ったふうに笑った。
その様子に、花井も水谷と同様「珍しいな」と一言零す。
机の間の通路を時折に身体を引っ掛かりながらこちらへとやってくる花井を、は大人しく待った。
「水谷、阿部。篠岡と先行っといて」
「え?花井君……?」
「おーっす。、待ってっからね!」
「ちゃん、席取っておくね」
「え?あ、うん。ありがとう」
ぽかん、と三人を見送る。
その中に花井も加わるはずなのに、彼はの横にいる。
「9組あるっつってたよな。泉にでも借りるか。行くぞ、」
「えっ?花井君。一緒に来てくれるの……」
もしかして彼も忘れたのかと考えたが、それは違った。
花井はきちんと脇に教科書を抱えていて、それが意味することは用もないのに共に着いてきてくれるということ。
「あぁ、まあ。俺別にいらないか?」
「そんなことない!そんなことないよ!!」
ただ、悪いなぁと感じただけだ。
慌てて叫ぶように言うと、花井は悪戯そうに笑った。
「知ってる」
勘違いされてはかなわないと言い募ろうとしたは、その笑顔に面食らった。
その様子に、花井は更に可笑しそうに笑う。
からかっている感満載の笑みに、は、自分の言葉の意味を変に解釈されていなかったことに一先ず息を吐き、それからむっと花井を見やった。
「何か、の思考回路がやっと分かってきた気がする」
花井は膨れたを見て笑ったことをごめんと謝りながら歩き出す。も隣をついて行った。
些細なことでも、まず初めに申し訳ないという気持ちが湧き上がるらしい。
手を出しすぎて鬱陶しがられているのかもしれないと思ったが、そんな気持ちは微塵もないようで。
は近づけば一歩引く。そのくせ何故かこちらの庇護欲をこれでもかと刺激するのだから、これほどたちが悪いこともない。
大人しく親切を受け取ってくれれば良いのに、悪い悪いと逃げ回るのだから。
を相手にすると何故か押し付けがましくなってしまうのは、百パーセント彼女のせいだ、と花井は判断している。
最後には嬉しそうに受け取ってくれるのだから、花井も大分躊躇しなくなった。
「ありがとう、花井君。嬉しい」
「……おう」
言葉を送られることには、まだまだ慣れそうにはないが。
「生物の教科書?いいぜー」
「ありがとう、泉君。助かります」
の方へと掲げられた教科書を受け取る。快くハイ、と差し出してくれてはにこりと微笑んだ。
「で、花井は何でいんの?」
「付き合いだ、付き合い」
苦笑して話す花井に、やはり彼は何の用のないことが知れる。
はぐるりと視線を回した。
教室はどこも同じようなのに、全く雰囲気が違う。
9組に入るとき、突き刺さる視線には怯んだ。そして、何事もないように先へ進む花井を、変に尊敬したものだ。
「、行くぞー。チャイム鳴る」
「あ、うん。泉君、すぐに返すね」
「おー。いつでも良いけどな」
促されては泉にもう一度ぺこりと礼をし花井を追いかけた。
出て行く際、田島と三橋がじゃれ付くように遊んでいるのが見えて、くすりと小さく微笑む。
そういえば、彼らも同じクラスなのだった。
田島がこちらに気付いたようで、大きく手をふってくれたのを見てもまたふりかえす。
彼らがいるなら。
たとえ一人でも、次からココに来ることが出来るような気がした。
優しく暖かい人たち。知っていますか?私は大好きなんです。
「凄く助かったなぁ、花井君。違うクラスに入るときって、緊張しませんか?」
気持ち的に小走りで、は半歩先を歩く花井に遅れまいと実験室へと急ぐ。
遅刻などしたくない。花井を巻き込むなどもっての外だ。どう謝ればよいのか検討もつかない。
「あー……っと、そうだと思ったから」
「え?」
純粋に疑問符を浮かべたに、花井はばつが悪そうに頭に手をやる。
それは、つまり。
「……なんか、花井君て私のこと全部見透かしてそうです」
「んなことあるかよ」
が苦手だと思って着いてきてくれた、と。彼は、どこまで。
は本心からそう思い思わず口に出したが、花井は苦く笑いながらそれを一蹴した。
人前が苦手なことはおのずと知れたし、基本的に他人と積極的に関わっていく性格でもないらしいことくらいは分かる。
それが分かると、転校してきたにとって、他クラスなど野球部のあの面々以外に知り合いも少ないのではないかと思っただけだ。
そして、改めて思うのは、花井と初対面のときに今の彼女とは思えない積極性。
一体、あの時どれだけは取り乱していたのか。後に彼女が言っていたが、あの時はただ必死だったのだ、と。
「花井君。あの、本当に――」
ありがとう。そう言おうとした言葉は、花井の困ったような笑みにかき消された。
「いいから。……あのな、気恥ずかしいって、わかる?」
「よく……意味が……」
「これくらいいつでも付き合うって。別に。いちいち礼なんて言ってくれなくていいんだ。嬉しいけどな」
嫌なのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
取り敢えず言い過ぎることは困らせることだと分かって、はこくりと頷いた。
字を追いかける時は大抵掛けている眼鏡を外しながら、花井は顕微鏡を覗いていた。
地味に見えなかったりすると面倒くさい作業だが、それでも座学を受けるより時間は早くすぎる。
「花井、何か見えたー?」
「ああ。何か見えた」
見えた小さな生物のスケッチをしながら、花井はおざなりに答える。そんな問いをするということは、水谷はまだ見えていないに違いない。
後で席を変われとか、そういうことを言うに決まっている。
「ね、ちょっと覗かせてー」
「あぁもう、ほらよ」
案の定の要求に花井はわざとらしく溜息をつくと、水谷に席を譲る。
「サンキュー」
変わりに水谷の席に着いた時、ズボンのポケットに入れられていた携帯が軽く振動したのに気付いた。
見ると、メール受信一件。
宣伝のメールならば、授業中でもあるのだし放っておくところだが、それは違った。
(……?)
幸運にも教師の位置からは死角となる席だ。
花井はこそこそと携帯を開きメールを見る。そういえば、彼女からメールが来たのはアドレスのやり取りをした以来かもしれない。
それは別に避けているなどといった理由ではなく、登下校、授業中、休み時間、はたまた部活中、気付けば大半共にいるからだ。
改めて気付いてみればその時間の多さに愕然するが、それを当たり前に受け止めている自分にも驚きを隠せない。
話を戻せば、ようするにメールなどしなくてもは傍らにいるのだから直接言う方が確実に早いのだ。
(何だ……?)
しかも、今もたいして離れていない場所にいるのだから声を掛ければいいのに。
そう思いメールを読んだ花井の表情が不意に変わる。
『ありがとう。面と向かっては受け取ってくれなかったので。今度またおにぎりででもお礼します』
シンプルな文面。おそらく、授業中に携帯を触るなどのことには慣れていない。
だから、本当に伝えたいことだけを打ち込んだ。
一つ机を挟んで、は顕微鏡を覗きながら千代と楽しそうに話していた。
「ははっ、クソ真面目だよなァ。いいのに」
意図せずに笑みが零れるのを阻むことは出来なかった。
こんな手段でくるとは。は見透かされていると少しふてくされて呟いていたが、これは予想していない。
「どしたの?花井」
「何でもねー」
突然笑い出した花井に水谷が不思議そうに覗き込むも、このことを言う気はない。おにぎりの件が知れてみろ。文句を言うに決まっている。
しばらくを観察していると、急に視線がふれた。
一瞬驚いたように目を丸くして、花井の握っていた携帯に納得がいったのか顔が緩んだ。
再びあの言葉の形に唇が動いて、そしてもう一度の満面の笑み。
答えるように、花井の微かに口を上げた。
君の言葉が、こんなにも響く。
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