あらためて、思い知る。
大変さと、生半可ではない努力。
そして犠牲と言えば大袈裟だろうか。
授業の大半を夢の世界で過ごす彼らを見ては乾いた笑い声を小さく零す。
仕方ないとは思うけれど。
チョークが空を切って飛ぶのをは初めて目撃した。
優秀なピッチャーよろしく、二つ放たれたソレは見事に二人の頭向かい吸い込まれていく。
「水谷っ!!阿部ぇっ!!起きんか!!」
見逃してくれるほど、先生って甘くはないよねぇ。
響く 01
「お前らなぁ……、寝るんならばれねェように寝ろよ!!」
花井君、それも間違ってる気がする。
思ったものの大真面目にそう苦言を呈する花井に口を挟むのも憚られ、は大人しくその光景を眺めていた。
千代はくすくすと小さく笑っている。勇気があるなぁと、は場違いな感想を覚えた。
「うっせーな」
「うわ、寝たんないわぁー」
「お前ら……」
頭に血管が浮き出ているんじゃないかと思うほど、ふるふると身体を振りわす花井には悪いが、可笑しくて吹き出しそうで、は懸命に堪えた。
本当に苦労していそうだ。
聞き流すのが上手い阿部と、もはや耳に届いてすらいないのではないかと言う風に欠伸をした水谷を諭すのは諦めたのだろう。
花井はこれ以上ないほどに大きな溜息を落とすと、その大きな身体をどさりと椅子に投げ出した。
「俺だって眠いっつーの」
「、眠くねぇの?」
今は眠気が遠ざかっているのか、もう限界だ、疲れた、というような雰囲気を醸し出し机へと倒れこんでいる花井とは対照的に目が冴えている阿部は、欠片も興味がなさそうに尋ねた。
とは言うものの頬杖を付きながらぽかぽかと日のあたる特等席に陣取っているため、眠気に誘われるのは時間の問題だろう。
実際その席に座れば眠気との戦いに勝てるものなどいないのではないか。
「今はまだ大丈夫。というか、チョークが空飛んだ事に驚いて逃げちゃったな」
言うと阿部は「ソレは言うなよ」と軽く苦笑した。
ちなみに投げつけられ粉々に砕かれ、せっかく新品であったチョークは本来の長さの半分ほどになっていた。
まだ使えるとわざわざ黒板へ戻しに行った阿部と水谷は、なかなか律儀ではないだろうか。
「けど、ちゃん今日5時に行ったんでしょ?それで眠くないなんて凄いなぁ」
「まだ倒れてないだけだよ。午後くらいは危ない気がする」
確か数学。
人間、興味がないことを集中して聞けるなど出来ない。うつらうつらと頭が揺れ、大欠伸を必死でかみしめる自分が容易に想像できる。
しかも大体にして嫌なことをしている最中は時間が経つのが遅く感じる。それを耐えることなど、おそらくには出来ない。
「ちゃん数学嫌いなの?」
「数学とかそんな高度なこと以前にね、計算が嫌いだよ。自分の暗算能力が信じられなくてどんな簡単なモノでも筆算したくなる」
思い出すのも不快だ、という表情のに、千代はわかる気がするなと呟いた。
「何、お前、数学が嫌いなの?」
「阿部君は好きなの?」
「いや……好きっつーかまだわかるっつーか」
尊敬を浮かべた目で見られ、阿部は居心地が悪そうに目を逸らした。
「別に凄いことでもねーだろ」
「私、には出来ないことだから、凄いと思うよ」
出来ない人が出来る人というのは、自分にはない努力をしている人だから。尊敬に値するべきで、素直に認めたいとそう思う。
誰かを受け入れることができるようになりなさい、とは母親の言葉だったか。
は聖人などではないから、難しいこと。でも、だからこそ。
「……そーかよ」
寝る!と宣言されすぐ伏せてしまったため顔は見えなかったが、その耳は赤かった。
阿部君でも照れることがあるのだな、とはにこやかに微笑んだ。
無言の圧力に、はだらだらと汗を流す。
また私は何かやってしまったのか。
頭が真っ白になりには教科書に目を凝らし繰り返すことしか出来なかった。
「あれ?え?さ……さんびゃくごじゅう……いち…」
「お前は計算すら出来んのか!!」
(うわぁ……やってしまった……)
どうやら間違えたらしい。頬が熱くなったのが自分でわかったが、かといってどうすることも出来ない。
救いと言えば教師がまだ待っていてくれることだろう。挽回のチャンスをくれたのだ。
ノートの端に計算式を書く。
「三百六十一でした」
「そうだな」
そのまま次の問いの説明に入った教師の後姿にほっと息をつく。
焦れば焦るほど頭が回らない。しかしそんな状態で落ち着けるほど心が強いわけではなく、もしも更に間違えていればそれこその頭は完全に停止していただろう。
(こ……怖かったぁ)
一度の間違いですんで良かった。
二度もあの厳しい目線を受ければの大して強靭ではない心は押しつぶされる。
しばらくして授業は終わった。
良いのか悪いのか、眠気がを襲うことはなかったが。
「、お前……」
「は、花井君、そんな目でみないで欲しい!!」
「いや、何もいう気はないんだけどさぁ」
きゃー、と頭を抱えるを花井は慰めるように軽く叩いた。
ふにゃりと倒れこみ頭を机につける。何だ、高校の授業が難しいのその前だ。
「大丈夫か、」
「わかんない」
「赤が付いたら部活でれねェぞ」
「ほ、本当っ!!?」
は弾かれたように顔を上げた。
初耳だ。祈るように花井の顔を見たがその言葉が撤回されることはなくむしろ力強く頷かれた。
何もしていない前に諦めたくはないが、力が抜けることは仕方がない。
「それだけは嫌だなぁ。私英語もやばいのに」
「英語もだぁ?」
呆れられたかな。落ち込んだ気分では頷く。
勉強が出来る方ではない。得意な科目と不得意な科目の点差が開きすぎていて、平均すると平々凡々。
なんとかそれで乗り切ってはきたのだが。
「ソレは嫌だ。頑張らなくちゃ」
「あー……、?」
小さく決意をするに花井は話かける。
「なぁに?」
「……只のお節介だな。スマン、いいや」
「え、そんなことないよ。どうしたの?」
促すようには首をこてんと横へやった。彼の言うことなら余計なことなどないだろう。
他人に不必要なことなどしない。そんなことくらい見ていればわかる。
「英語なら教えてやれっけど」
「……何処がお節介なの花井君」
むしろ。
それは自分から望んだところで叶いにくいことで、そんなことが都合よく起きるなんて。
いやでも。
は首を振った。
これ以上ないほど迷惑千万な自分が今以上に重ねることは出来ない。
「ごめん、迷惑だな」
「そんなこと!!違いますよ!!」
今までのにない大きな声に目を丸くする花井に気付いたがそれよりも認識を変えさせなければ。
何処がを困らせるのか。そんな訳ない。あるはずがない。
凄く助けられて、本当に嬉しくて、は一人だったけど、その寂しさを感じないようにしてくれたのは花井で。
声が鋭くなるのは、自分の情けなさと、彼に誤解だとしてもあんな顔をさせてしまったから。
哀しそうな顔しないで。お願い、あなたは笑っていて。
何か言おうとしたのだろうか、口が中途半端に開いたまま固まっている花井を見据える。
勘違いしないで欲しい。甘えすぎても嫌なのだ。
「そんなことないの。でも、だって、これ以上頼れないよ」
「いっつも言ってんだろ。が思ってるほどやっかいなんて思ってねェんだよ。俺の事考えてくれんならじゃあ素直に受け取れ!」
結局、最後は小さくなってしまったの声を花井は取りこぼすことなく全て拾った。
そして彼も荒々しくなる声を抑えることが出来ない。
びくりと身体を震わしたを見て気付いたのか、ばつが悪そうに一言「悪い」と残し、しかしまたに視線を据えた。
「でも」
「でもじゃねェ。おし、の得意な科目は何だ」
「え?国語……と、歴史なら、大丈夫だと」
それが無ければの成績は悲惨なものとなる。
「ホントか?助かる、そうしよう」
「あの?」
何かを決めたかのように手を打つ花井の意図が分からずに、は小首を傾けた。
「代わりにソレ教えて。なら、気にすることなんてないだろ?」
花井からの提案を、それがを懸念してのことだとは自明のため、承諾するのは遠慮するべきだとは思った。
「頷け」
の心を見透かしたように短く、それ故厳しく放たれた言葉に、思わず首を縦に振った。
「おし、約束な」
(あ、笑顔……)
思わぬところで見ることに成功して、はなんとも言えない気持ちになる。
けれど、嬉しくないはずはないのだ。
「いいの?本当に?」
「まだ言うかァお前は」
「ちゃーん」
「あ……」
絶妙のタイミングで遠くから呼ばれ、は椅子から半立ちになった。
ちら、と花井を見ると、行けと合図をしてくれて、ぺこりと頭を下げながらそちらへと小走りになる。
行く前に、一つだけ。
くるりと身体を後ろに向ける。
「花井君」
「ん?」
「ありがとう。嬉しい」
余りにも綺麗に笑うから。
「はーないー。惚けてんぞー」
「……いたのかよ水谷」
「てか、お前、何でそんなに構うの?」
「あ?」
何故って。
阿部の問いに暫く考え、花井は理由が見つからないことに気付く。
いや、あることにはあるのだ。
初対面のときの印象が強すぎて、迷子になっているような彼女だから何か気にかかって。
それに、俺を引き止めたときの途方に暮れたような表情。まるで、“俺”しかいないのだ、というように助けを求められた。
だから気にかかって。
でも、それだけもはずだ。彼女をあのアパートへと連れて行って、学校まで案内すれば終わるような。
こんなにも、の試験にまで口をはさむなんて有り得ない。
「いや、放っておけないだろ。だって」
「へー」
「何だよ」
「何でも」
答えになってないのは、花井にだってわかっている。
「ま、って何かふらふらしてんもんな。世話好きの花井には気になるんじゃねーの?」
「……そうかも」
水谷が肘をつきながら言った言葉に、花井はしみじみとかみ締めながら頷く。
どこか不安定な感じが彼女にはするから、きっとそうだ。
「深い理由なんてねーよ」
阿部に言い残し、花井は机に伏せった。
干渉し過ぎているのかも。しかし、それで不都合が起こるとも思わない。
(あー眠)
次の授業が終わればまた部活。
話は途切れ、程よい雑音の中、しばらくの間と花井は静かに目を閉じた。
前頁 ■ 次頁